この世のもの

見たものと考えたこと

映画『花束みたいな恋をした』

1日(ついたち)は映画を見たい。

 

事前情報でも予想されていたが、固有名詞の多さがこれでもかという感じだ。全体的に日本国内のものが多いのも自分の大学生の頃の周辺を思うと非常に頷ける。もちろん今までに見た映画で固有名詞と自分の触れてきたものの重なり具合は屈指である。一方でわたしの学生時代は遠い昔であり、2015年からの5年間が自分にとっては大まかな「最近」という一塊になってしまっていると感じた。その1年1年の時間経過を伴って話を作られているのが素晴らしい。

見ていた映画が洋画なのは日本のだと出演者が重なって問題があるからかもしれない。

そう思うと麦と絹は菅田将暉有村架純は好きかなと考えてしまう。菅田将暉の出ている映画は結構見ていそうだが、実写化ものも結構出ていなかったか、二人とも。その辺は見ていないし、何なら有村架純とかは舐めてかかっているかもしれない。

 

趣味の幅広さは、情熱が浅く広がっているということでもあり、一点を極めて成し遂げるタイプの人生が描かれるわけではない。

そういう消費者がいるから世の中は成り立っているのだな、と消費者になるか死ぬかしたいと思っていた頃の自分を思う。いや、もとより消費者なんだけど。麦はイラストを仕事にしたいと思っているが、それほど執着はしていない。センスはあるけれど、簡単にやめてしまったように思う。

このようなことは一般的に褒められないしドラマにもならないが、それ自体は全く悪いことではないと思う。絹がブログにしているのはラーメンだ。スコアもつけている。しかしその内容は言語化されて伝えられることはない。

2人は好きなものの固有名が重なり合ってハイになる。やはり内容に踏み込んで、どう好きなのかということが語られることがない。この感じは非常に身に覚えがある。もっと一般名詞化された感覚を共有できないと、実は価値観が共有できているかはわからないのだと思う。

絹はコミュニケーションを取りたいと言っていて、でもそれは身体的なものだったりする。それだけでは難しいということは、終盤に身体的なやりとりを交わすものの関係性が改善しない様子でわかる。既に会話がなくなっているのだ。

好きなもので自分を語るということは色々と危険であるなと思う。特に、趣味が幅広いと薄れやすい。自分と不可分なくらいに取り憑かれていたらまた別なのかもしれないが(それすらも変化はするけれども)。

2人は普通になるって難しいと感じる。普通になりたくないと思って生きていたらいざ普通になりたいと思ったときになれなくなっている、というのは往々にしてあることで、私など30代半ばで就職したのでよくわかる。それまでに普通をどう思っていたか、見下していなかったとしても自分から切り離して考えていたかもしれない、でも普通というのは生きることに最適化しているモードなのだ、だから生きることに向き合うと顕然化してくる。怖いことだ。

最初の熱量が冷めてくると、雲行きが怪しくなってくる。白内障の手術をしたら黄斑疾患による歪みが気になるようなもので、眩しさに隠されていたものが見えてくるだけかもしれない。微妙なずれを気にしていなかったのが気になってくる。でもそれがこの映画だと外的な出来事(例えばさわやかが混んでる)のが面白い。

視点を変え同じことを見せる、その時に独白が重なる。二度手間なだけ、ではなくてやはりそれが重なっていることにときめきを感じる。よく考えたらこれは神の視点であって2人とも相手が同じことを考えていることは知らないのだが。これを見たときのときめきとは何なのだろう。どちらかだけに感情移入することを許さないとも言えるか? 後半は当然のように考えの違いが、しかも重要な出来事について示されてくる。やはり違う人間だし、違う情報をもとに判断しているのだ。どの独白も、結論だけが重なるのが物語として美しい。

前半はそんな感じもありつつ、意図が明確でない表情の場面などもあって何の話なのかな?という楽しみがあったりもするのだが、それが段々と穂村弘いうところの渦の中に収斂していくような展開がある。そこには魅力を感じきれなかった。

 

仕事に取り憑かれていく麦の思考は俗悪だ。仕事に何が置き換えられたのだろうか。それほど深い挫折を経ているようでもないが、だからこそ仕事にはまれたのかもしれない。その思考、思想に基づく言動はかなり暴力的というか、しっかりDVだと思う。絹も働いているが、やはりもともとの熱量が低いので、何とも見ていて微妙な気持ちになる仕事をしている。別にそれも悪いことではない。しかし簿記2級を取らせて歯科医院の受付をさせるというのは、意地悪な脚本だと思う。流石である。歯科だって必然性はないので、そこから興味の持てなくもない仕事に移るのはいいじゃないかと思うのだが、麦の気には入らない。麦の変貌ぶりはちょっと類型的というか面白みに欠け、もっと表面的には今まで通りの感じの良さなんだが俗悪な価値観が不意に滲み出るような感じの方が私は好きだった。パズドラやってる場面の怖さは相当だったが。

終盤の若い2人の輝きは暴力的であった。やはり序盤の2人は実年齢より若い役をやっていた落ち着きというのが出てしまっていたと逆算的に思えてしまう。絹と麦は何を思って泣いていたのだろうか。ときめきが親しみになることを全肯定して空回りする麦には厳しかったと思う。それにしても清原果耶さんは普通な格好をしていると異常な魅力が発散される、ちはやふるを思い出した。

 

その他
  • 独特なセリフのやりとりだが、特に序盤の距離感のあるときの会話が魅力的だ。探り探りだったり、ずれたり噛み合ったりの敬語が面白い。親しくなってからはそれほど印象的なものがなかった。お互いを知っていると思っているから会話が必要でなくなっているのもあるし、とは言え家族にはまだなれていないということかもしれない。
  • 食についてはこだわりがあるのかないのかよくわからなかった。とりあえずジョナサンで何が好きなのか知りたかった。ハンバーグは好きそうだ。パスタを茹でるくらいはするのが麦、もう少し手の込んだことをするのが絹だとするとこの辺りにも何となく不穏なものを感じる。ビールがいつもスーパードライなのは好きなのか、コンビニによく売っているからなのか。 
  • 押井守が序盤に本人役で出ているほか、とにかく具体的な実在の人物名が多量に会話に出てくるので、オダギリジョーが友人の知人として出てきたときにはこれはどっちだろうと思ってしまう。結論としてはこの世界には菅田将暉有村架純同様、オダギリジョーはいないらしい。ちなみに、2020年にはコロナではなくインフルがある程度流行したようである。