この世のもの

見たものと考えたこと

「妻、小学生になる。」が終わってしまった

いつの話をしているのかという感じなのだが、最終回を見ずにうだうだしていたのをようやく見たのだった。見終わってしまうのがもったいないというのと、受け入れ難い展開になって終わったら、せっかく好きで見ていたのに辛いなというのがあったからだ。しかしそんなことはなく、最後まで丁寧な作りを感じられるいいドラマであった。

最終話について

どのように終わるかというのがポイントで、第8回終盤で貴恵が不甲斐ない夫娘に落胆しながら万理華から離脱してしまったのだが、第9話ラストでは万理華の霊体が貴恵の霊体に憑依するというよく考えると謎な現象が起きて、第10話は第1話のリフレインのような形で始まる。万理華の離脱芸(芸じゃないけど)というのは貴恵が憑依している間にも発動していたけれど、第9話では貴恵と万理華の関係が以前とは逆になっていて、その構図を描きたかったんだろうなと思う。こういう立場の逆転とかスライドとか繰り返しとかがこのドラマには多く、物語というのは人間同士の関係性を描くものなんだなと納得させられる。

話すがずれたが、貴恵は万里華の中に戻ってそのまま居座ろうというのではなく、最後に悔いを残したことを結婚記念日であるその1日に解決して成仏しようとしていたのだ。最終回にすべてが解決する動機とか理由とかがはっきりしたことで、ある意味で安心して見られるようになっていた。

まずもって冒頭の千嘉と貴恵のシーンが良かった。母同士の会話はそれまでもいろいろ好きだった。千嘉は貴恵の生前を知らずに、娘の姿をした状態だけで関わるというかなり特殊な状況で、それでも共同生活を送る中で友情を深めていた。貴恵が戻ってきていることに表情だけで気づいた上級者の千嘉は、「あんな終わり方はあなたらしくない」と新島家へ送り出す。

中盤の展開も見るべきところはたくさんあって、両親への挨拶ごっことか、カンヅメになっている弟にはあえて万理華のふりをする(のを10歳が演じていると思うと込み入っていて恐ろしい)ところとか、麻衣が会社を辞めずに済んでいたとわかったこととかも心揺さぶられるところなのだが、きりがないので終盤について書きたい。

私はずっと農園が放置されていることが気になっていて、まあ圭介が契約をそのまま更新し続けていたのも変な話なのだが、とにかく第1話で雨の中呆然としてからそのままだった農園をどう再建するのかを考えていた。ドライブの再現などもあるのかと思っていたが、しかし途中には事故の起きた場所もあるはずで、そういう意味では何度も通りたくないのかもしれないなどとも。そのため、レストランも終えて、夜になってから貴恵があったわ悔い!と思い立ったときには何か嬉しかった。ドライブのシーンはなかったけれど、蓮司が運転する工務店の車で農園に向かう際にはメンバーが1人増えた感慨もあったのではないだろうか。

昼間の挨拶ごっ子とか、農園の横のテーブルとか、すでに感傷的な場面はいくつかあったので、ひとつの回にもう1度というのはちょっと多いようにも思ったけれども、農園の生き残りであり、夫婦の象徴でもあるハバネロを植えたことでついに成仏できた、その展開は力が入っていた。今際の際の言葉が「おやすみ」というのはなかなかないのではないだろうか。さりげないし、その後の圭介の「おはよう、万理華ちゃん」とも綺麗に対になっていた名台詞だと思う。永い眠りだと思うと死というものの捉え方が変わってくる。

万理華が帰宅したところで完全に母と娘の関係が変わっていることが分かる。貴恵離脱後の数日のうちに、怯えた表情で目を合わせなかった娘が母に向かって笑顔で語りかけるようになっていたのは2人の生活が過去とは違ったものになっていたからだ。貴恵によって千嘉も万理華も変化したというのが鮮やかだった。

説明しすぎない、これ見よがしな伏線を張らない、というのがこのドラマの長所だと随所で思っていたのだが、最後に圭介が来ていたパジャマとメッセージカードもその一つだった。最終話の買い物のあと、自宅のテーブルで隠すシーンがあった。どこかでサプライズ的に渡すのかと思っていたが、貴恵が去ったあと、発見したのだろう。隠すために圭介に命じる諸々の掃除が単なるそのための挿話でなく、自宅を手放さずに大事に育てていくという考えにもつながっているのも好ましい。

自宅の話に象徴されるように、家族にほぼ全てを傾注した物語だった。最終話のレストランに来ていた友人との関わりもそれほど描かれなかったように、貴恵にとってこの世への未練というのがほぼ全てだったということだと思う。ドラマ全体が家族によって濃密に構成されていたのに、自分の家庭など持たない私が息苦しさなく見られたのはこちらにすでに形成された思い入れ補正もあるけれども、家族だからという外型的なものを礼賛したり、べき論に走ったりせずにただ個人個人の思いの強さという形で表現されていたからだと思う。そもそも圭介は麻衣の父親としてはどうかと思う10年間を送って来たわけで、そこを貴恵が責めずに個人としての圭介を立て直そうとしたのが象徴的だ。そういった意味でも第9話の父娘回は感動的だったし、大団円に向けて必要だったのだ、と思う。

公式サイトを見た

録画したのを遅れ遅れで見ていて物語を知ってしまうのが嫌だったのもあって、公式サイトは途中から見ないようにしていたのだが、最終回を見終わってようやく訪れた。最近のドラマにしては簡素な内容で、いくつかのコラム以外に特に気になるところはない。しかし恥ずかしながら、コラムを読んでようやく第1話で麻衣が電話をしていた相手が友利だったことを知った。ずっと交際相手だと思っていたので、蓮司との兼ね合いはどうなるのかと気を揉んでいたのに、無駄な心配であった。姪にたかっていたのか。それはお金を貸すなと強くいわれるはずだ。

各演者のインタビューを読むと、当然のことながら毎田の快演というのが周囲の役者との関係あってのものだと分かる。石田ゆり子は出演シーンがなくとも現場にいたらしく、その姿を見てから毎田に対峙することで貴恵として見ることができたと堤真一は語っている。吉田羊は特に毎田を絶賛していて、その思いもあって2人のシーンがどんどん良くなっていたのではないかと想像する。

年齢、年代について

貴恵は10年前に事故で亡くなってから成仏できずにそのままなので本人のセリフにある通りアラフォーなのだが、ちょっとそうは見えない。実際に石田ゆり子それよりは10歳くらい年上で、恋せぬふたりで岸井ゆきのの母親役だった西田尚美と同い年のようだ。10年時が止まっているというよりは圭介と一緒に歳をとってしまった感があって、実際にアラフォーな人が演じていたらどうだったかなと思わなくはない。とは言え、世代としてはまあそうだろうなという感じで、発言には昭和感があるのでその辺はなんとも言えない。昭和感と書いたが、麻衣や守屋に対する貴恵の発言には現代の価値観的にいかがなものかと思うところもありつつ、しかしその後押しがなければ良い結果を生まなかっただろうととも思い、今がぎりぎり成立する良い時期だったのではないかと愚考する。

 

最近は花粉症の薬のせいか眠気が強く、考えがまとまらないのでこの辺りにしておこうと思う。この物語のテーマは「家族」と「死」であると思うのだけれども、異常な設定を用いながらも真正面からそこに向き合ったドラマだった。唐突な死によって、別の形ではあるけれども時が止まったままの本人と家族が、その死を受け入れるまでの話だった。全話を通じて、感情の動きとか、その発露たる表情とか会話とか、そういうものを味わうことが純粋に楽しいということをあらためて感じさせてくれた。感謝したい。