この世のもの

見たものと考えたこと

『性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか」マーリーン・ズック著

進化についての本をよく読む近頃なのだけれど、その中で疑問に思っていたことが多く問題として提起されている本だった。

すぐに結論に飛びつこうとする態度を戒め、わからないことはわからないというところまで引き戻す作業が行われている。

通底している主張としては、イデオロギーを科学に持ち込むな、もしくは科学をイデオロギーの正当化に用いるな、ということだと思う。それと、二元論で語れることは多くなく、その両方について考えないといけなかったり、その中間であったりするということ。要するに「面白い」話ではないので、あまりこういう本が話題になったり売れたりはしないのだろう。

メモ
  • 後天的か先天的か、獲得的か遺伝的かという二分法では形質は語れない。形質は動物と世界の相互作用の結果であり、それらは不可分だから。たとえば母性本能も、環境に依存している。人間以外の動物にフランス語を教えることはできないが、ある人間がある一つの言語を母国語とするのは、獲得された形質である。等々

  • 「自然の階梯」、要するに人間をトップに置いた生物のランクづけは一般の世界から研究者の世界まで広く浸透している。例えば動物研究における規則では、鳥類については様々な手続きが必要だが、虫や棘皮動物だと不要であるとか。しかし、これは神話に過ぎず、系統樹、進化の歴史に高いも低いもない。ますます洗練されていく訳でもない。もっとも新しく変化した種はウイルスや細菌である(世代交代が急速だから)。

  • 動物の行動について調べる際、昆虫より霊長類の方により多くの関心を向けるべき理由など何もない。類似した種間であっても、雌雄の役割は大きく異なり、逆に遺伝的には遠い種間で類似することもある。全ての種は各々に特有の環境で進化した。どの行動様式がより「自然」ということはない。

  • おそらくほとんどの動物がヒトにおけるオーガズムの機能なしに繁殖をこなしている。ヒトのそれは、進化の副産物として生じた可能性がある。

  • 様々な能力(例えば空間把握や数学)について性差があるにしても、その程度は小さく、文化圏の差を超えないし、他の生物におけるそれに比べてもごくわずかである。社会的なバイアスの結果を生物学の結果としてはならない。

  • 動物行動の説明に教訓を求めてはならない。生物学がフェミニズムに資するところはその逆よりも小さい。フェミニズムは、動物行動に関する我々の認識が自分自身の行動の認識によって影響を受けていると指摘できる。

性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか

性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか